お金(税金)をもっと教育のために

2学期始まった学校
お金(税金)をもっと教育のために

毎日暑い日が続きます。朝晩は少し涼しく感じる日もありますが、残暑が厳しい9月になるのでしょうか。
夏休みが短くなって、久しくなります。私が教員の頃は、夏休みは8月31日まであり、最後の一週間が「夏休みの宿題仕上げ期間」として、子どもたちが追い上げにかかる時期でした。しかし、今は一週間早く学校が始まるので、お盆が終わるとともに追い上げ期間も早くなったようですね。

さて、学校の2学期が始まりましたが、新型コロナウイルスのオミクロン株亜種による感染は、相変わらずのようです。この亜種株は、従来型より子どもたちに感染しやすいようで非常に厄介。感染すると「軽症」と言われる大人でも、39度から40度近い高熱が2〜3日続くそうです。子どもにとっては、これはたまらんでしょう。
一方、全く無症状の子もいるようで、本人も気づかないうちに周りにウイルスを撒き散らしてしまうこともあるといいます。本当に厄介な代物です。

学校の教職員がもっとも気にしているのが、「熱中症」と「コロナ」の見分け。熱があるからといって、熱中症なのかコロナなのか、わかりにくい。春に運動会を行う学校も増えてきていますが、まだ秋の涼しい(?)時期に運動会を行う学校も多いです。夏休み後の9月に運動会の練習が集中しますが、気温が高いままの日が続くと、子どもたちの体調管理にいつも以上に注意をしなければなりません。
夏休み中は、わりと自由な時間をエアコンの効いた部屋で(?)過ごしていた子どもたちにとって、暑さと運動に慣れないうちはただでさえ体調を崩しやすいもの。運動会という行事を控え、先生方は自分のこと以上に子どもたちの健康管理に気を使います。

屋外での運動会練習時は、十分な間隔をとって熱がこもらないように、原則マスクは外して行うそうです。熱中症以外にコロナ感染にも注意を払いながら、教育活動を行わなければならない今の先生方は本当に大変です。

保護者のみなさんにお願いです。もし、朝の段階でお子さんの体調が思わしくなかったら(微熱がある、だるそう、咳が盛んに出る、のどや頭を痛がるなど)、無理をさせず学校を休ませて、病院など医療機関に相談してください。「だるそうにしているが熱はない。これはきっと夏休みからの〝怠け癖〟だ」などと思わないで。
無理して学校に来て、急に発熱して具合が悪くなり保護者に連絡して病院へ・・・、というようなことを私も現職時代に時々経験しました。
「自分の仕事もあるし、熱もなさそうだから学校に任せておこう」という保護者の方の気持ちもわからないでもありませんが、ことはコロナ感染も疑われる時です。冷静に判断し、まずはかかりつけの小児科医に相談を。

夏休みを終え2学期が始まった学校は、子どもたちの健康問題を含めて懸念材料がたくさんあります。最近では、学校の先生が人員不足でそろっていないなんてところもあります。特別に支援の必要な子どもたちも増えています。また、「働き方改革」なんて言われていますが、業務量は一向に変わらないと聞いています。
何か一つでも解決できれば、負担はグッと減ると思います。熱中症やコロナはどうしようもありませんが、人員不足や特別支援教育の充実、学校業務の整理縮減など解決できる権限をもつのは教育委員会です。行政側がその気になれば、解決の目処がたつものもあるはずです。

子どもたちは地域の宝。教育は「国家100年の計」と言われる様に将来のための投資です。日本は先進国の中でも、教育にお金を使わない国として有名?になっています。もっと教育にお金(税金)をかけ人を育てていかなければ、資源の無い日本は行き詰まってしまいます。

子どもたちが安心して学び合うことのできる教育施策や条件整備を求めて

― 「民主教育をすすめる県民会議」が要請行動 ―

家庭の所得格差が子どもの大学進学率などの教育の格差に影響している実態がある中、新型コロナウイルス感染症の収束は見通せず、保護者の所得減少から更なる格差拡大が危惧されます。
日本はOECD諸国に比べて1学級当たりの子どもの数が多く、いじめや不登校、子どもの貧困等、子どもたちが直面する課題は深刻です。そのような子どもたちが抱える課題解決のためには、教職員が一人ひとりの子どもとしっかり向き合い、きめ細やかな教育を保障することが必要ですが、日本の教職員の働き方は先進国中でもっとも過酷であり、加えて教職員不足も社会問題となっており、その対応と計画的な教職員定数の改善が急務です。
一方で、学校現場は競争主義に基づく教育施策が持ち込まれています。国連児童の権利委員会は日本に対し、「高度に競争的な学校環境」が「いじめ」や「不登校」等を助長している可能性があると再三にわたり懸念を示しています。大分県では、独自の「学力テスト」や「体力テスト」、「高校通学区の撤廃」等々により、子どもたちは絶えず競争を強いられています。

現職の小中学校や高校の教職員、学者・文化人、一般労働者、大学教職員、教職員のOBG、そして保護者などで構成する「民主教育をすすめる県民会議」は、去る8月24日に「第50回国民教育要求実現大分県民集会」を開催しました。大分県から約50〜60人が集いました(コロナ禍のため参加人数を制限しました)。昨年、一昨年と新型コロナウイルス感染症のため集会や要請行動が中止となり、2年ぶりの開催となりました。
県民会議の代表である原田孝司議長(大分県議)のあいさつの後、2021年の活動報告(コロナのため中止)と2022年度の活動方針についての説明が川﨑亨事務局長(県教組)からありました。
これまでは、著名な方をお呼びして現在の教育をめぐる情勢や諸課題について講演をしてもらっていましたが、集会も簡素化され講演も無くなってしまいました。しかし今回は「夜間中学校」を取り上げ、『こんばんはⅡ』(37分バージョン)という映画(DVD)を集会前に上映し参加者全員で視聴しました。
また平岩純子副議長(県議)から、九州各県では夜間中学校の設置に向けた動きがはじまっているのに、大分県では調査で「ニーズが確認できない」という理由で、手をつけようともしていない現状の話がありました。教育は「ニーズのある・なし」で語られるものではないはずです。たとえ一人でも勉強をやり直したい、勉強がしたいと願う人がいれば、その思いに応えなければなりません。

その後、参加者は「県知事」「県議会」「県教育委員会」の3班に分かれ、それぞれ要請行動を行いました。今回は、知事も県議会議長も県教育長も所用で対応できなかったのが残念でしたが、参加者の皆さんは1時間という時間が短く感じられるほど、思いを熱く語られていました。
私は、県知事の班に加わらせてもらいました。ブラックと言われる学校の働き方や若い人が教職を敬遠したり人員不足になっている学校現場の状況について話し、一刻も早い対処を要求しました。
副知事も「教育現場のたいへんさは知っている。働き方改革については、積み重ねが大切。今日皆さんから聞いた要望は、知事や教育委員会にきちんと伝える」と応じてくれました。

3年ぶりの県民集会と要請行動でした。かつてより参加者の数は少なくなりましたが、たくさんの意見や要望が出ました。特に保護者からの意見は大切で、知事や教育委員会に対するアピール度も大きいです。コロナ禍では多くの保護者の参加は無理ですが、コロナが落ち着けばなるべく多くの方に参加してもらいたいです。
要求事項がすぐに改善されるのは稀ですが、子どもたちが安心して学び合うことができる居場所を作るための環境整備を進めさせるため、この取り組みは継続していかなければなりません。

将来の議員をめざして!

大分県議会「夏休み子ども議会見学」開催

大分県議会は「夏休み子ども議会見学」を8月22日に行いました。午前中10時から、県下の中学校(3市8校)から中学生12人(1人欠席)が県議会に集いました。
身近でわかりやすく開かれた県議会をめざす広報広聴活動の一環として企画されました。
子どもたちは3つの班に分かれ、県議会広報委員会の議員さんの説明を受けながら、本会議場や会派の控室、委員会室等を見学。議員と名刺交換も行いました。

その後本会議場で、議員15人と触れ合いトーク。いつもは私たち議員が座る議員席に子どもたちが着席し、執行部席には私たち議員参加者が座りました。
子どもたちからは、「どうして議員になろうと思ったのですか」「議会がないときは、普段はどんなことをしていますか」などの質問が出ました。広報委員の議員がていねいに答えていました。

もっともオオッと思ったのは、「高校生になるけど、高校まで(授業料など)ただにできないか」という質問でした。勉強にがんばりたい子どもたちが、より上の学校に行けるようにするのは私たち議員の責任であり仕事です。経済力が、子どもの勉学の壁になるようなことがあってはなりません。
中学生のその言葉で、議員としての大切な仕事を再認識させられました。ありがとう。同時に、今回参加した子どもたちが議員や議会に興味や関心を持ち、将来の議員をめざしてくれることを、大いに期待しています。

参加者と議員と記念撮影(撮影時のみマスクを外しています)

ヤングケアラーフォーラム参加

ヤングケアラーフォーラム参加
〜私たちおとなができることは?〜

「ヤングケアラー」。その言葉を聞いたことがある方は、今増えているのではないでしょうか?厚生労働省のHPによると、「ヤングケアラーとは、法令上の定義はありませんが、一般に、本来大人が担うと想定されている家事や家族の世話などを日常的におこなっている子どもとされています」とあります。保護者が担うべき家庭のいろいろな仕事や世話を、子どもたちがやっている。
これまで見過ごされてきた問題が、家の世話で学校に行けなくなった子どもたちの実態が社会問題化する中で、ようやく何とかしようと行政も支援を考えだしました。

大分県の福祉保健部こども・家庭支援課と大分県教育委員会が主催で開かれた、初の「ヤングケアラーフォーラム」。お話しを聞きに大分市内まで行ってきました。
まず、一般社団法人Omoshiroの勝呂ちひろ代表理事と同じく青木大三理事から「親子まるっと伴走支援について」と題して基調講演がありました。
心に残ったお話を箇条書きに並べてみます。
①ヤングケアラーの子どもは家族の世話をするのが〝当たり前〟なので、「困っていることはない?」と聞いても、何が困っているかわからない
②保護者が相談しない。社会から孤立している
③情報収集が継続的に行われていないため、誰も親子の生活ぶりを知らない
④だから、親子まるっと伴走支援なんだ。出会いから継続的に他につなぐまで。
「成人式の時に、笑って会えるのが目標。だから、ずっと伴走(支援)していく」という勝呂さんの言葉が印象的でした。
 また、「子どもの権利条約」4つの柱(生きる権利、育つ権利、守られる権利、参加する権利)を挙げ、「大人が子どもの権利をきちんと守っていくことが前提だ」と述べました。さらに、「ヤングケアラーの子どもに、それはおかしいよと言っても、どうしていいかわからない。『困っていることはない?』ではなく『心配していることはない?』と聞く方がいい」と指摘しました。
誰しもがケアを担う時代です。しかし、ケアはつながりを生みます。1つのケースのつながりが、次のケースにつながるといいます。「自分のケアと自分の大事な人のケア。大人も子どもも一緒になって大事に考えられる社会をめざす」として、お話を結びました。

続いて、パネルディスカッションがありました。コーディネーターは相澤仁・大分大学福祉健康科学部教授、他に先ほどの勝呂ちひろ代表理事と青木大三理事、それに後藤みか・津久見市教委スクールソーシャルワーカー(SSW)、厚労省の内尾彰宏・子ども家庭局室長補佐の5人の方々。「ヤングケアラーへの支援について」というテーマで、それぞれの立場からご意見を伺いました。
津久見市教委のSSWである後藤さんは、具体的事例として高校1年生の男子の例を挙げました。彼が「家事負担が増えた」と愚痴をこぼしたことを友人が聞き、学校や友人(同級生)が支援したことを紹介。「一番の支援者は口に気づいた友人。学校と同級生がいたことが大きな支えになった」と述べました。青木さんも「ポイントは友だち。関係がよかった。困り事を相談できる環境づくりが大切だ」と指摘しました。
また内尾さんは、「気づきが大切。友人から先生へというネットワークを作っていくこと」の重要性を強調。勝呂さんも「相談ではなく愚痴や雑談など、何気ない会話からが大切」と、何がない言葉にその子の本音があると訴えました。
内尾さんは「相談窓口を作っている自治体は増えたが、相談に来る人は少ない。どうして来ないのか?福祉という行政の支援を嫌がる家庭がある」と、家庭(親)とつながる難しさを吐露。勝呂さんから「閉ざしているのは母親。ある母親は電話が恐いと。子育ての失敗を責められると思っている」と述べ、周りがその家庭を「困った家族」と批判し、本人たちの責任にしてしまっているが、「困っている家族」という視点で何が支援できるか考えないといけないことを訴えました。
最後に、相澤さんは「友だち、行政、いろんなアンテナを立てて、気づきつながる必要がある。家族からの発信はハードルが高い。何か変化があれば、地域からサポートを受けるのは〝当たり前〟という啓発をしないと。家族全体のサポートが必要な時。今ある精度を十分活用しながら、この問題にアプローチしていくことが大事だ」とまとめ、本フォーラムを閉じました。

やや参加者が少ないような気がしました。フォーラムがあること自体を知らない県民の方も多いのではと感じてしまいました。私も新聞か何かで(はっきり覚えていないのですが)知り、申し込んだような気がします。将来を担う子どもたちが置かれた大変な状況。もっと宣伝して、県民のみなさんに参加していただきたかった。
あと、ヤングケアラーの子どもたちの様子や対応についての具体的事例の紹介が少なかったように感じました。子どもたちはどんな状況なのか、学校や行政はどう支援しているのか。私たちおとなが今やらなければならないこと、今できることは何かをみんなで考えていく時ではないか、と強く感じました。

「原爆の火」星野村で学習

「原爆の火」星野村で学習
平和教育サークルの仲間とともに

原爆が広島・長崎に投下されて77年。私たち日本人が絶対に忘れてはならない核兵器の悲惨な威力と現実。でも、残念ながら時間が経つにつれ、日本人の記憶からも薄らいでいく・・・。

臼杵・津久見の先生方の平和教育サークルのみなさんと7月31日、午前中は小山浩一さん(日田九条の会事務局長)とトレバーさん(玖珠町ALT)と、午後からは星野村で山本拓道さんから、長崎原爆や星野村の「原爆の火」についてのお話を聞きました。中身の濃いお話でしたが全てを載せると長くなるので、要点をまとめてお伝えしたいと思います。

【被爆後の長崎を記録した米兵(おじいちゃん)】・・・トレバーさんの話
おじいさんは、1941年日本軍の真珠湾攻撃をみて、21歳の時に進んで差戦争に参加しました。兵士としてサイパン・テニアン・沖縄・長崎の戦場を転々としました。直接、戦争体験を聞くことはできなかったけれど、残された写真やおばの話から、太平洋戦争について学ぶようになりました。
沖縄戦のガマで見た数々の無残な死体と匂いは、戦後もおじいさんの記憶から消えませんでした。住民を含めて20万人以上が犠牲になった沖縄戦でしたが、勝ったアメリカ軍でも部隊の65人中で生き残ったのは6人という悲惨な状況でした。戦争には勝者も敗者もありません。戦後もおじいさんはビーチに行くと上陸を思い出し、幽霊を見たように怯えていました。「戦争は死ぬまで終わらない」と、おじいさんの体験からそう感じました。
1945年9月からおじいさんは占領下の長崎に行って写真を残しました。破壊された街だけでなく、生き残った人々も写した写真でした。戦争では、「敵は人間じゃないんだ」と教えられます。でも、おじいさんが長崎で出会った人々は、貧しく何もなかったけれど「人間」でした。長崎での人々との出会いが、差別と偏見のおじいさんの心を癒してくれました。
戦争は国と国とがするもの。アメリカ兵が日本人を差別するのを見て、「アメリカ人を見るように日本人を見てくれたらいいのに・・・」と、おじいさんの手紙に書かれていました。

トレバーさんが日本に来て、長崎でおじいさんが撮影した場所を追いながら、平和について考えていく行程を取材した報道もあります。コロナが感染拡大している今は躊躇されますが、そのうちに彼同様、おじいさんが見たであろう被爆後の長崎の情景と今の様子を見比べながら、戦争と平和について考えてみたいと思っています。

【学校で子どもたちに何を伝えるかが大事】・・・小山浩一さんの話
私は今、「九条の会・日田の会」の活動に力を入れています。毎週、日田駅の前で「スタンディング」をやっています。3月8日から19回立っています。小中高校生がメッセージを書いてくれます。
中には、私と同じぐらいの年配の男の人と女の人が論争を挑んできます。「あんたたちのような人たちが九条を守れと言っているから、日本は外国になめられるんだ!とにかく今は軍備を増強して、よその国になめられない日本にしないといけないんだ!」というようなことを堂々と言うのです。「ということは、そういう教育をしろということですね?」というんだけど、実際そうなりますよね?
ところが、高校生たちはメッセージで、「戦争がなくなって平和な世界がもどってほしい。広島に原爆が落とされたのを知っていたから、戦争はやめてほしいと思いました。ちゃんと言葉にして伝えれば収まると学校の先生が言ってたから、ほんとはそれが大切だと思った。NO WAR!世界から戦争をなくして、みんなが平等に暮らせる世界を作りたい。人を殺す必要がどこにあるのか、その考えがわからない。戦争即刻中止を!話し合いで、即時停戦を!」と書いていました。この子たちが私たちの未来、希望です。
でも、その子たちがさっきの大人のような考えの方に、なびいていくことも考えられる。だから学校で何を伝えるかが、ものすごく大事だと思っています。

広島から、世界中に広がって植えられた「被爆のクスの木」の苗。星野村にもあります。小山さんは星野村に行くと、必ずこのクスの木の葉っぱを持って帰って、クスの木の話をした後子どもたちに葉っぱを渡すそうです。「修学旅行で広島に行ったら、お母さんの木にこの葉っぱを会わせてね」と言ったら、子どもたちはその葉を大切にしているそうです。
子どもたちに〝大事な人を心に住まわせる教育〟をしてほしいとおっしゃていた小山さん。広島の母のクスの木と星野村の子どものクスの木の「命のつながり」を大切にしたお話は、心に強く残りました。

 

星野村へ
その後、車に乗り合わせて福岡県八女市星野村の平和の塔まで、約1時間かけて向かいました。山本達雄さんが被爆後の広島から持ち帰った〝原爆の火〟が灯っています。雨も上がり気温も上がって暑くなりましたが、小山さんの案内で「平和の塔」の説明を聞きました。その他、被爆2世の〝子ども〟クスの木やアオギリの木など、広島と関係を説明していただきました。

星野村では、被爆直後の広島から〝原爆の火〟を持ち帰った山本達雄さんのご子息の山本拓道さんから、当時の達雄さんの気持ちや状況も含めお話を聞かせてもらいました。

【星野村に「原爆の火」を持ち帰った山本達雄さんの思い】・・・山本拓道さんの話
父の山本達雄は、戦争中3回召集されました。3回目は、広島の呉から宇品まで軍の命令を伝える役目を負っていました。
1945年8月6日の朝。当番兵がうっかり達雄を起こすのを忘れてしまい、2番列車で広島に向かっていたので達雄は助かりました。救援に広島に入った兵隊さんたちは、鼻血を出したり下痢をしたり具合が悪くなって、次々と死んできました。何が起きたかわからず、原子爆弾を「毒爆弾」と呼んでいました。でも、何か違うことが起きていると感じたそうです。
半月後に復員命令が出て、達雄は広島に住んでいた父親がわりに可愛がってくれていた叔父の山本弥助さんを探しに行きました。死体の山の中から叔父さんらしい死体を見つけると、愛しくて抱きついたそうです。口を開け奥歯の金歯を確認するのですが、叔父さんでないとわかると途端にその死体はただの腐った死体に変わるのでした。
最後に、もう一度叔父さんが経営していた「金正堂」という書店跡に探しに行きました。原爆の投下地点から500メートルぐらいの3階建ての洋館でしたが、その地下でくすぶっている火を見つけました。息を吹きかけると炎を上げてまた燃えだしましたが、叔父さんが息を吹き返したような気がしたと言います。その火を、出生の時におばあさんが持たせてくれたカイロ灰に入れて、星野村に持ち帰りました。
山本家では、その火を仏壇や火鉢、こたつに使いながら火を灯し続けました。でも達雄には「いつかこの火で、アメリカを焼き殺してやる」「あの憎しみは忘れんぞ」という恨みの火でもありました。
戦後、達雄は「自分は悪い人間だ」と苦しみ続けました。日本が高度経済成長を続ける中で、「自分だけが良くなったらいけないのではないか」と就職を断り、慣れない農業をしながら苦悩を背負い続けていました。
1966年に新聞社を通じて〝火〟のことがみんなに知られるようになり、多くの人が訪れました。達雄は、「恨んでばかりいても良くないのでは」「こんな恨みを代弁していても死んだ人は納得するだろうか」と葛藤したのち、1968年8月6日に〝平和の火〟として市に引き継ぐことにしました。今では、18カ所に分火されています。
晩年、辰雄は「何万人も一度に人を殺した大虐殺の原子爆弾とアメリカを、日本人として許せますか?」と聞かれ、言葉を噛み締めながら次のように語りました。「それが・・、日本人として・・、なかなか・・。その事実は消えんけど、それは水に流す努力をせん限り、今イスラムやら、しょっちゅう殺し合いを繰り返す。あれと同じ結果しかない。一所懸命気持ちを落ち着けて、そういう恨み心は洗い落とさにゃならん。その努力は死ぬまで続く」。
亡くなる間際には、「人間同士が殺し合う愚かなことは、もう止めにゃあかん」と言い残し、2004年5月永眠しました。
一人ひとりやり方は違っても、思いを繋いでいくしかありません。思った人が、今自分にできることをすることでしか、平和を築くことはできないのではないかと思います。

2001年に『原爆の火』の絵本(森本順子・金の星社)が出版されましたが、大分県では翌年2002年の小学生『夏の友』に掲載されました。そして、今日まで子どもたちが戦争と平和について考える、平和学習の大事な教材の一つになりました。また、臼杵市の先生が『原爆の火』を使った平和授業を行い、学校の子どもたちが書いた感想文が拓道さん宛に送られていました。
人々を焼き殺した〝原爆の火〟が〝平和の火〟として、その思いをみんなでつなぎ広げてゆく。そして、一人ひとりの命が大切にされる世の中をつくるため、「自分ができることをやっていこう」と誓いを強くした学習会でした。

中津市の日出生台学習会に参加

中津市の日出生台学習会に参加
― この映画を一人でも多くの人に ―

大分県にある日出生台を知っていますか。由布市湯布院町と玖珠郡玖珠町、九重町にまたがる広大な演習場です。緑の大地が広がる自然いっぱいの素晴らしい高原。しかし、ここは明治時代から軍隊の演習場として使われてきました。そして今は、在沖縄米軍海兵隊が実弾射撃訓練場として使用しています。

その日出生台での在沖縄米軍海兵隊の訓練や訓練後の様子を、見事に1時間の記録映画に収めた「風の記憶 湯布院―日出生台1996〜2022」(高見剛監督)が完成し、それを見る機会に恵まれました。
湯布院で開催される「ゆふいん文化・記録映画祭」で初上映された映画です。私は残念ながら、その上映日に行くことができず観ることができなかったのですが、連れ合いが「ぜひ観てみたい」ということで事務局に問い合わせたところ、「中津市で上映する」ことがわかり主催団体の一つ「中津地区平和運動センター」にお願いして参加させてもらうことができました。

集会の名前は「第35回平和の鐘まつり」。1986年から毎年、反戦・反核・反原発をテーマに開催されている集会です。「中津地区平和運動センター」「ピースサイクルおおいた」「草の根の会・中津」の三者共催だそうです。それぞれがしっかり活動をしていて、コロナでこの2年ほどは開催できなかったようですが、今年3年ぶりに会を開いたそうですが、多くの方が足を運び熱心に映画やトークに耳を傾けられていました。

映画はちょうど1時間の上映でしたが、その内容はとても濃いものでした。日出生台演習場の歴史と沖縄在留米軍海兵隊がなぜ日出生台へ来たか、そして官民が反対運動に立ち上がった経緯など、時系列で映像が追っています。やがて、行政側が押し切られ住民が主体となって反対運動を続ける様子や、段々と日本政府との約束さえ「反故」にし、「傍若無人」に振る舞うようになる米軍兵士たちの姿をカメラはしっかりと記録しています。
なぜ、このような事態になってしまったのか。日本はアメリカの「属国」なのか。日本各地に米軍基地を抱える私たち日本国民は、「本当にこれでいいのか」と考えさせられる映画です。特に、大分県の人たちにはぜひ一度観ていただきたい映画です。

映画上映後は、映画の監督である写真家の高見剛さん(由布院空想の森美術館館長)と訓練を監視する市民グループ「ローカルネット大分・日出生台」の浦田龍次事務局長のお二人が登場し、トークタイムとなりました。お二人の映画に込めた思いや願い、米軍訓練に対する怒りなど、約40分ほどお話を聞くことができました。

【反対運動をする人が少なくなったのは?】
高見さんー最初は官民一体で反対した。その後、県知事(当時)の「如何ともしがたい」の言葉で、だんだん人が離れていってしまった。
浦田さんー反対運動に来ない人はどうして来ないのか、私も知りたい。反対運動は本当にたいへんだが、でも続けなければ、、、。本土5箇所で演習が行われているが、日出生台が一番米兵の外出を食い止めてきた。しかし、今年はついにそれも自由になってしまった。
【映画の題名はなぜ「風の記憶」なのか】
高見さんー日出生台の写真集を出すときに「風の記憶」とつけた。巻頭の言葉を頼んだ筑紫哲也さんが「いいじゃないか」と言ってくれた。米軍訓練の情報は何も入ってこない。何かあっても、風のように少しでも早く日出生台に駆けつけることができるように「風」を使った。
浦田さんー日出生台に来てくれたいろんな人たちの「記憶」という意味で。
【映画を作った理由は】
高見さんー北海道で最後の一人になっても居座って反対運動をした人がいた。その人の周りに人が集まって大きなうねりを作ったという映画を観たから。
米軍は今回は自分たちのしたい訓練をするようになった。もう隠さないという「方向転換」をしたのではないか。
浦田さんー住民主体で反対運動をしているのは日出生台だけ。SNSでネットワークを立ち上げたが、他から連絡はなかった。
訓練の協定は大分県と九州防衛局の間で交わされたもので、米軍は入っていない。それで自分たち(米軍)は関係ないという立場。しかし、今回は日米合意(訓練日数年間35日)さえも破っている。大変なことなのに、他の演習場を抱えている自治体は、それをよくわかっていない。

周りの人たちに、これは大変だよ!ということを知ってほしくて、この映画を作った。

 < 映画のチラシより >