平和学習意見交換会

教職員の仲間と演習場の今と課題について
日出生台小野原地区にて意見交換会

2021年11月6日(土)

春にはサクラソウの咲く自然豊かな日出生台ですが、そこには、4900ha(東京ドーム1425個分)もある西日本最大の陸上自衛隊日出生台演習場があります。1997年に沖縄の米軍基地負担軽減策の一環として、実弾射撃訓練も受け入れることがきまりました。身近な場所であるにも関わらず、平和を取り巻く現状や問題を伝える報道は非常に少ないのが実情です。
「これまで日出生台演習場の周辺ではどんなことが起こってきたのか?」「今はどんな様子なのか?」「周辺で暮らす人々の思いや課題は?」などを調査するために、臼杵・津久見の教職員の仲間と11月6日(土)に玖珠の日出生台に向かいました。日出生台では、酪農を営む衛藤洋次さん、牧一統さん(くす星翔中教諭)、梶原康裕さん(塚脇小教諭)にお話を伺うことができました。

車で小野原地区に向かっていくと、道の途中から車が移動するたびに「ガタン、ガタン…」と規則的に音がします。この道は、40㎝のコンクリートの下に厚さ10㎝の鉄板が敷かれている防衛道路(『戦車道』とよばれる)。重量の重い戦車が通っても大丈夫なように造られていますが、これまで、戦車が川に転落して隊員が亡くなる事故が起こったり、榴弾砲を牽引していた自衛隊の大型トラックが雑草地に転落したりする事故が起こっています。さらに進んでいくと、対戦車ミサイルが演習場外の集落からわずか1㎞の地点に着弾した場所も教えていただきました。通学や通勤に使われている生活道が危険と隣り合わせであり、誤射も起こり得る実態を聞き、平和とは程遠い日常の中で暮らしている現実を突きつけられました。
 小野原地区に上がると、赤いコンクリートの標が畑や民家跡地にあちこち建てられているのが目立ちます。これらは、この土地に住んでいた人たちの家・田畑を国が買い取った後の印とのことで、標の裏側には、「防衛」の文字が記されていました。多くの人々が、この小野原地区から離れていきました。赤い標や有刺鉄線がはりめぐらされている日出生台。訓練のために、長年住み慣れた土地を離れていった人たちの気持ちを思うと、同じ県内で暮らす者として、もっと知っておけなければならないことがたくさんあることを思いしらされました。

南部コミュニティーセンターに着くと、衛藤洋次さんから日出生台の変遷と現状、平和運動への思いについて意見交換をしました。

日出生台の変遷・現状
・1899年に日出生台が陸軍の演習場になり、そこで暮らしていた人々が谷に移転させられた。
・戦後は、米軍がこの土地を窃取し米軍の演習場となった。朝鮮戦争の時には、米軍も朝鮮の人もここで訓練して戦場に行っていた。娯楽施設も慰安の場所もでき、人口は増えたけど、暗黒の時代だった。
・米軍の使用後は、陸上自衛隊の演習場として使われるようになった。
・日出生台では米軍の演習に対して、県と町と国とで確認書を取り交わしている。
・宮崎・鹿児島・熊本では毎年訓練を実施しているが、日出生台は沖縄の負担を受け入れている場所ということで、訓練が免除されているところもある。
・確認書では、「朝7時~夜8時までしか米軍は訓練してはならない。」としていたのに、2019年、米軍は守らずに夜9時以降も訓練をした。
・米軍がくるようになってから、税金を使って防音工事をするようになった。「音がうるさいなら、離れている家族のもとに移転していきなさい。」と移転補償も始めた。対象は145戸。国が、家・宅地・田・畑を買い取る。現在、出ていく人が1/3を超えた。毎年3~4軒は、この土地から出ていく。4~5年先まで移転の予約がいっぱい。年配の人が住まなくなるだけでなく、若い人もでていくようになった。
・住人が減り地区の学校も休校となった。子どもたちは、玖珠の学校へバスで通うようになった。

平和運動への思い
この地で平和運動を続けているのは、ここで何かが起こると、自分たちの人生まで変わるのではないかという思いから反対運動を始め、20数年間も運動に携わってきた。はじめは経験も、どう運動をつくっていいのか分からなかった。1996年に沖縄に行った時、運動しているおじいやおばあの元気がいい。人と触れ合うことで元気が出た。こんなふうに人間のつながりの中で、元気を与えられることなら自分でもできるのではないかと思って日出生台に帰ってきた。
米軍に対する運動を始めたら、前向きに生きられるようになった。住民運動は、負担ばっかりで願いも思いもなかなかかなわない。大変なこともあり、家族の理解と協力も必要だ。でも、運動は人間がつくるもので、どこかに楽しさがある。自分の楽しさは、休日にこうやって遠方から日出生台に来てくれる人がいるということ。触れ合う人は友だちで、日出生台で一人でも多くの友だちをつくることが自分の運動だと思っている。そして、それは、ぼくの財産だと思っている。
反対運動をしているなかまは、だんだん減ってしまって今は一人になってしまった。でも、監視小屋で知り合った人、伊方原発で訴訟をしている人、沖縄の住民運動で頑張っている人も、みんな友だち。そんな人々がいる場所は、きらっと輝いている。一生懸命運動することは、意味がある。みんながみんな認めてくれなくても、だれかが認めてくれている。“あんやつ見ていたらおれもがんばってみようか”と思える人間になりたい。自分もずっと日出生台に住み続けたい。
この2年、米軍の訓練も自衛隊との共同訓練もない。本当はすべてがなくなるのがいい。“訓練がない”というのは、本当に穏やかな冬が過ごせる。緊張状態がない今が本当に幸せ。これが長くつづくといい。

牛の放牧と草刈りは認められている。11月には演習場内で冬用のほし草を刈る。3月には住民の手によって、野焼きをする。冬は真っ白、野焼きすると真っ黒、その大地から春は新芽が出て山桜が咲き緑が鮮やか。ここは、すてきな所。一生かけてまもっていいような場所。

新型コロナウイルス感染症の拡大もあり、昨年度と今年度の2回、実弾射撃訓練が中止となった日出生台演習場。そこには、その土地を愛し住み続けようとする人たちがいることを、私たちは忘れてはいけません。「防衛」とは、国民の生活や財産を守ること、言い換えればその人の「人生」を守ることです。そのために、誰かの人生が犠牲になっていいはずはありません。県内の平和を取り巻く状況を日出生台で学ぶことで、わたしも真実を知るために行動することの大切さや、人とのネットワークを広げながら連帯することの重要性を再確認しました。かつての静かな日出生台に戻すために、私も県議会の場でできる限りのことに取り組みます。