「原爆の火」星野村で学習

「原爆の火」星野村で学習
平和教育サークルの仲間とともに

原爆が広島・長崎に投下されて77年。私たち日本人が絶対に忘れてはならない核兵器の悲惨な威力と現実。でも、残念ながら時間が経つにつれ、日本人の記憶からも薄らいでいく・・・。

臼杵・津久見の先生方の平和教育サークルのみなさんと7月31日、午前中は小山浩一さん(日田九条の会事務局長)とトレバーさん(玖珠町ALT)と、午後からは星野村で山本拓道さんから、長崎原爆や星野村の「原爆の火」についてのお話を聞きました。中身の濃いお話でしたが全てを載せると長くなるので、要点をまとめてお伝えしたいと思います。

【被爆後の長崎を記録した米兵(おじいちゃん)】・・・トレバーさんの話
おじいさんは、1941年日本軍の真珠湾攻撃をみて、21歳の時に進んで差戦争に参加しました。兵士としてサイパン・テニアン・沖縄・長崎の戦場を転々としました。直接、戦争体験を聞くことはできなかったけれど、残された写真やおばの話から、太平洋戦争について学ぶようになりました。
沖縄戦のガマで見た数々の無残な死体と匂いは、戦後もおじいさんの記憶から消えませんでした。住民を含めて20万人以上が犠牲になった沖縄戦でしたが、勝ったアメリカ軍でも部隊の65人中で生き残ったのは6人という悲惨な状況でした。戦争には勝者も敗者もありません。戦後もおじいさんはビーチに行くと上陸を思い出し、幽霊を見たように怯えていました。「戦争は死ぬまで終わらない」と、おじいさんの体験からそう感じました。
1945年9月からおじいさんは占領下の長崎に行って写真を残しました。破壊された街だけでなく、生き残った人々も写した写真でした。戦争では、「敵は人間じゃないんだ」と教えられます。でも、おじいさんが長崎で出会った人々は、貧しく何もなかったけれど「人間」でした。長崎での人々との出会いが、差別と偏見のおじいさんの心を癒してくれました。
戦争は国と国とがするもの。アメリカ兵が日本人を差別するのを見て、「アメリカ人を見るように日本人を見てくれたらいいのに・・・」と、おじいさんの手紙に書かれていました。

トレバーさんが日本に来て、長崎でおじいさんが撮影した場所を追いながら、平和について考えていく行程を取材した報道もあります。コロナが感染拡大している今は躊躇されますが、そのうちに彼同様、おじいさんが見たであろう被爆後の長崎の情景と今の様子を見比べながら、戦争と平和について考えてみたいと思っています。

【学校で子どもたちに何を伝えるかが大事】・・・小山浩一さんの話
私は今、「九条の会・日田の会」の活動に力を入れています。毎週、日田駅の前で「スタンディング」をやっています。3月8日から19回立っています。小中高校生がメッセージを書いてくれます。
中には、私と同じぐらいの年配の男の人と女の人が論争を挑んできます。「あんたたちのような人たちが九条を守れと言っているから、日本は外国になめられるんだ!とにかく今は軍備を増強して、よその国になめられない日本にしないといけないんだ!」というようなことを堂々と言うのです。「ということは、そういう教育をしろということですね?」というんだけど、実際そうなりますよね?
ところが、高校生たちはメッセージで、「戦争がなくなって平和な世界がもどってほしい。広島に原爆が落とされたのを知っていたから、戦争はやめてほしいと思いました。ちゃんと言葉にして伝えれば収まると学校の先生が言ってたから、ほんとはそれが大切だと思った。NO WAR!世界から戦争をなくして、みんなが平等に暮らせる世界を作りたい。人を殺す必要がどこにあるのか、その考えがわからない。戦争即刻中止を!話し合いで、即時停戦を!」と書いていました。この子たちが私たちの未来、希望です。
でも、その子たちがさっきの大人のような考えの方に、なびいていくことも考えられる。だから学校で何を伝えるかが、ものすごく大事だと思っています。

広島から、世界中に広がって植えられた「被爆のクスの木」の苗。星野村にもあります。小山さんは星野村に行くと、必ずこのクスの木の葉っぱを持って帰って、クスの木の話をした後子どもたちに葉っぱを渡すそうです。「修学旅行で広島に行ったら、お母さんの木にこの葉っぱを会わせてね」と言ったら、子どもたちはその葉を大切にしているそうです。
子どもたちに〝大事な人を心に住まわせる教育〟をしてほしいとおっしゃていた小山さん。広島の母のクスの木と星野村の子どものクスの木の「命のつながり」を大切にしたお話は、心に強く残りました。

 

星野村へ
その後、車に乗り合わせて福岡県八女市星野村の平和の塔まで、約1時間かけて向かいました。山本達雄さんが被爆後の広島から持ち帰った〝原爆の火〟が灯っています。雨も上がり気温も上がって暑くなりましたが、小山さんの案内で「平和の塔」の説明を聞きました。その他、被爆2世の〝子ども〟クスの木やアオギリの木など、広島と関係を説明していただきました。

星野村では、被爆直後の広島から〝原爆の火〟を持ち帰った山本達雄さんのご子息の山本拓道さんから、当時の達雄さんの気持ちや状況も含めお話を聞かせてもらいました。

【星野村に「原爆の火」を持ち帰った山本達雄さんの思い】・・・山本拓道さんの話
父の山本達雄は、戦争中3回召集されました。3回目は、広島の呉から宇品まで軍の命令を伝える役目を負っていました。
1945年8月6日の朝。当番兵がうっかり達雄を起こすのを忘れてしまい、2番列車で広島に向かっていたので達雄は助かりました。救援に広島に入った兵隊さんたちは、鼻血を出したり下痢をしたり具合が悪くなって、次々と死んできました。何が起きたかわからず、原子爆弾を「毒爆弾」と呼んでいました。でも、何か違うことが起きていると感じたそうです。
半月後に復員命令が出て、達雄は広島に住んでいた父親がわりに可愛がってくれていた叔父の山本弥助さんを探しに行きました。死体の山の中から叔父さんらしい死体を見つけると、愛しくて抱きついたそうです。口を開け奥歯の金歯を確認するのですが、叔父さんでないとわかると途端にその死体はただの腐った死体に変わるのでした。
最後に、もう一度叔父さんが経営していた「金正堂」という書店跡に探しに行きました。原爆の投下地点から500メートルぐらいの3階建ての洋館でしたが、その地下でくすぶっている火を見つけました。息を吹きかけると炎を上げてまた燃えだしましたが、叔父さんが息を吹き返したような気がしたと言います。その火を、出生の時におばあさんが持たせてくれたカイロ灰に入れて、星野村に持ち帰りました。
山本家では、その火を仏壇や火鉢、こたつに使いながら火を灯し続けました。でも達雄には「いつかこの火で、アメリカを焼き殺してやる」「あの憎しみは忘れんぞ」という恨みの火でもありました。
戦後、達雄は「自分は悪い人間だ」と苦しみ続けました。日本が高度経済成長を続ける中で、「自分だけが良くなったらいけないのではないか」と就職を断り、慣れない農業をしながら苦悩を背負い続けていました。
1966年に新聞社を通じて〝火〟のことがみんなに知られるようになり、多くの人が訪れました。達雄は、「恨んでばかりいても良くないのでは」「こんな恨みを代弁していても死んだ人は納得するだろうか」と葛藤したのち、1968年8月6日に〝平和の火〟として市に引き継ぐことにしました。今では、18カ所に分火されています。
晩年、辰雄は「何万人も一度に人を殺した大虐殺の原子爆弾とアメリカを、日本人として許せますか?」と聞かれ、言葉を噛み締めながら次のように語りました。「それが・・、日本人として・・、なかなか・・。その事実は消えんけど、それは水に流す努力をせん限り、今イスラムやら、しょっちゅう殺し合いを繰り返す。あれと同じ結果しかない。一所懸命気持ちを落ち着けて、そういう恨み心は洗い落とさにゃならん。その努力は死ぬまで続く」。
亡くなる間際には、「人間同士が殺し合う愚かなことは、もう止めにゃあかん」と言い残し、2004年5月永眠しました。
一人ひとりやり方は違っても、思いを繋いでいくしかありません。思った人が、今自分にできることをすることでしか、平和を築くことはできないのではないかと思います。

2001年に『原爆の火』の絵本(森本順子・金の星社)が出版されましたが、大分県では翌年2002年の小学生『夏の友』に掲載されました。そして、今日まで子どもたちが戦争と平和について考える、平和学習の大事な教材の一つになりました。また、臼杵市の先生が『原爆の火』を使った平和授業を行い、学校の子どもたちが書いた感想文が拓道さん宛に送られていました。
人々を焼き殺した〝原爆の火〟が〝平和の火〟として、その思いをみんなでつなぎ広げてゆく。そして、一人ひとりの命が大切にされる世の中をつくるため、「自分ができることをやっていこう」と誓いを強くした学習会でした。