子どもたちが安心して学び合うことのできる教育施策や条件整備を求めて

― 「民主教育をすすめる県民会議」が要請行動 ―

家庭の所得格差が子どもの大学進学率などの教育の格差に影響している実態がある中、新型コロナウイルス感染症の収束は見通せず、保護者の所得減少から更なる格差拡大が危惧されます。
日本はOECD諸国に比べて1学級当たりの子どもの数が多く、いじめや不登校、子どもの貧困等、子どもたちが直面する課題は深刻です。そのような子どもたちが抱える課題解決のためには、教職員が一人ひとりの子どもとしっかり向き合い、きめ細やかな教育を保障することが必要ですが、日本の教職員の働き方は先進国中でもっとも過酷であり、加えて教職員不足も社会問題となっており、その対応と計画的な教職員定数の改善が急務です。
一方で、学校現場は競争主義に基づく教育施策が持ち込まれています。国連児童の権利委員会は日本に対し、「高度に競争的な学校環境」が「いじめ」や「不登校」等を助長している可能性があると再三にわたり懸念を示しています。大分県では、独自の「学力テスト」や「体力テスト」、「高校通学区の撤廃」等々により、子どもたちは絶えず競争を強いられています。

現職の小中学校や高校の教職員、学者・文化人、一般労働者、大学教職員、教職員のOBG、そして保護者などで構成する「民主教育をすすめる県民会議」は、去る8月24日に「第50回国民教育要求実現大分県民集会」を開催しました。大分県から約50〜60人が集いました(コロナ禍のため参加人数を制限しました)。昨年、一昨年と新型コロナウイルス感染症のため集会や要請行動が中止となり、2年ぶりの開催となりました。
県民会議の代表である原田孝司議長(大分県議)のあいさつの後、2021年の活動報告(コロナのため中止)と2022年度の活動方針についての説明が川﨑亨事務局長(県教組)からありました。
これまでは、著名な方をお呼びして現在の教育をめぐる情勢や諸課題について講演をしてもらっていましたが、集会も簡素化され講演も無くなってしまいました。しかし今回は「夜間中学校」を取り上げ、『こんばんはⅡ』(37分バージョン)という映画(DVD)を集会前に上映し参加者全員で視聴しました。
また平岩純子副議長(県議)から、九州各県では夜間中学校の設置に向けた動きがはじまっているのに、大分県では調査で「ニーズが確認できない」という理由で、手をつけようともしていない現状の話がありました。教育は「ニーズのある・なし」で語られるものではないはずです。たとえ一人でも勉強をやり直したい、勉強がしたいと願う人がいれば、その思いに応えなければなりません。

その後、参加者は「県知事」「県議会」「県教育委員会」の3班に分かれ、それぞれ要請行動を行いました。今回は、知事も県議会議長も県教育長も所用で対応できなかったのが残念でしたが、参加者の皆さんは1時間という時間が短く感じられるほど、思いを熱く語られていました。
私は、県知事の班に加わらせてもらいました。ブラックと言われる学校の働き方や若い人が教職を敬遠したり人員不足になっている学校現場の状況について話し、一刻も早い対処を要求しました。
副知事も「教育現場のたいへんさは知っている。働き方改革については、積み重ねが大切。今日皆さんから聞いた要望は、知事や教育委員会にきちんと伝える」と応じてくれました。

3年ぶりの県民集会と要請行動でした。かつてより参加者の数は少なくなりましたが、たくさんの意見や要望が出ました。特に保護者からの意見は大切で、知事や教育委員会に対するアピール度も大きいです。コロナ禍では多くの保護者の参加は無理ですが、コロナが落ち着けばなるべく多くの方に参加してもらいたいです。
要求事項がすぐに改善されるのは稀ですが、子どもたちが安心して学び合うことができる居場所を作るための環境整備を進めさせるため、この取り組みは継続していかなければなりません。

将来の議員をめざして!

大分県議会「夏休み子ども議会見学」開催

大分県議会は「夏休み子ども議会見学」を8月22日に行いました。午前中10時から、県下の中学校(3市8校)から中学生12人(1人欠席)が県議会に集いました。
身近でわかりやすく開かれた県議会をめざす広報広聴活動の一環として企画されました。
子どもたちは3つの班に分かれ、県議会広報委員会の議員さんの説明を受けながら、本会議場や会派の控室、委員会室等を見学。議員と名刺交換も行いました。

その後本会議場で、議員15人と触れ合いトーク。いつもは私たち議員が座る議員席に子どもたちが着席し、執行部席には私たち議員参加者が座りました。
子どもたちからは、「どうして議員になろうと思ったのですか」「議会がないときは、普段はどんなことをしていますか」などの質問が出ました。広報委員の議員がていねいに答えていました。

もっともオオッと思ったのは、「高校生になるけど、高校まで(授業料など)ただにできないか」という質問でした。勉強にがんばりたい子どもたちが、より上の学校に行けるようにするのは私たち議員の責任であり仕事です。経済力が、子どもの勉学の壁になるようなことがあってはなりません。
中学生のその言葉で、議員としての大切な仕事を再認識させられました。ありがとう。同時に、今回参加した子どもたちが議員や議会に興味や関心を持ち、将来の議員をめざしてくれることを、大いに期待しています。

参加者と議員と記念撮影(撮影時のみマスクを外しています)

ヤングケアラーフォーラム参加

ヤングケアラーフォーラム参加
〜私たちおとなができることは?〜

「ヤングケアラー」。その言葉を聞いたことがある方は、今増えているのではないでしょうか?厚生労働省のHPによると、「ヤングケアラーとは、法令上の定義はありませんが、一般に、本来大人が担うと想定されている家事や家族の世話などを日常的におこなっている子どもとされています」とあります。保護者が担うべき家庭のいろいろな仕事や世話を、子どもたちがやっている。
これまで見過ごされてきた問題が、家の世話で学校に行けなくなった子どもたちの実態が社会問題化する中で、ようやく何とかしようと行政も支援を考えだしました。

大分県の福祉保健部こども・家庭支援課と大分県教育委員会が主催で開かれた、初の「ヤングケアラーフォーラム」。お話しを聞きに大分市内まで行ってきました。
まず、一般社団法人Omoshiroの勝呂ちひろ代表理事と同じく青木大三理事から「親子まるっと伴走支援について」と題して基調講演がありました。
心に残ったお話を箇条書きに並べてみます。
①ヤングケアラーの子どもは家族の世話をするのが〝当たり前〟なので、「困っていることはない?」と聞いても、何が困っているかわからない
②保護者が相談しない。社会から孤立している
③情報収集が継続的に行われていないため、誰も親子の生活ぶりを知らない
④だから、親子まるっと伴走支援なんだ。出会いから継続的に他につなぐまで。
「成人式の時に、笑って会えるのが目標。だから、ずっと伴走(支援)していく」という勝呂さんの言葉が印象的でした。
 また、「子どもの権利条約」4つの柱(生きる権利、育つ権利、守られる権利、参加する権利)を挙げ、「大人が子どもの権利をきちんと守っていくことが前提だ」と述べました。さらに、「ヤングケアラーの子どもに、それはおかしいよと言っても、どうしていいかわからない。『困っていることはない?』ではなく『心配していることはない?』と聞く方がいい」と指摘しました。
誰しもがケアを担う時代です。しかし、ケアはつながりを生みます。1つのケースのつながりが、次のケースにつながるといいます。「自分のケアと自分の大事な人のケア。大人も子どもも一緒になって大事に考えられる社会をめざす」として、お話を結びました。

続いて、パネルディスカッションがありました。コーディネーターは相澤仁・大分大学福祉健康科学部教授、他に先ほどの勝呂ちひろ代表理事と青木大三理事、それに後藤みか・津久見市教委スクールソーシャルワーカー(SSW)、厚労省の内尾彰宏・子ども家庭局室長補佐の5人の方々。「ヤングケアラーへの支援について」というテーマで、それぞれの立場からご意見を伺いました。
津久見市教委のSSWである後藤さんは、具体的事例として高校1年生の男子の例を挙げました。彼が「家事負担が増えた」と愚痴をこぼしたことを友人が聞き、学校や友人(同級生)が支援したことを紹介。「一番の支援者は口に気づいた友人。学校と同級生がいたことが大きな支えになった」と述べました。青木さんも「ポイントは友だち。関係がよかった。困り事を相談できる環境づくりが大切だ」と指摘しました。
また内尾さんは、「気づきが大切。友人から先生へというネットワークを作っていくこと」の重要性を強調。勝呂さんも「相談ではなく愚痴や雑談など、何気ない会話からが大切」と、何がない言葉にその子の本音があると訴えました。
内尾さんは「相談窓口を作っている自治体は増えたが、相談に来る人は少ない。どうして来ないのか?福祉という行政の支援を嫌がる家庭がある」と、家庭(親)とつながる難しさを吐露。勝呂さんから「閉ざしているのは母親。ある母親は電話が恐いと。子育ての失敗を責められると思っている」と述べ、周りがその家庭を「困った家族」と批判し、本人たちの責任にしてしまっているが、「困っている家族」という視点で何が支援できるか考えないといけないことを訴えました。
最後に、相澤さんは「友だち、行政、いろんなアンテナを立てて、気づきつながる必要がある。家族からの発信はハードルが高い。何か変化があれば、地域からサポートを受けるのは〝当たり前〟という啓発をしないと。家族全体のサポートが必要な時。今ある精度を十分活用しながら、この問題にアプローチしていくことが大事だ」とまとめ、本フォーラムを閉じました。

やや参加者が少ないような気がしました。フォーラムがあること自体を知らない県民の方も多いのではと感じてしまいました。私も新聞か何かで(はっきり覚えていないのですが)知り、申し込んだような気がします。将来を担う子どもたちが置かれた大変な状況。もっと宣伝して、県民のみなさんに参加していただきたかった。
あと、ヤングケアラーの子どもたちの様子や対応についての具体的事例の紹介が少なかったように感じました。子どもたちはどんな状況なのか、学校や行政はどう支援しているのか。私たちおとなが今やらなければならないこと、今できることは何かをみんなで考えていく時ではないか、と強く感じました。

「原爆の火」星野村で学習

「原爆の火」星野村で学習
平和教育サークルの仲間とともに

原爆が広島・長崎に投下されて77年。私たち日本人が絶対に忘れてはならない核兵器の悲惨な威力と現実。でも、残念ながら時間が経つにつれ、日本人の記憶からも薄らいでいく・・・。

臼杵・津久見の先生方の平和教育サークルのみなさんと7月31日、午前中は小山浩一さん(日田九条の会事務局長)とトレバーさん(玖珠町ALT)と、午後からは星野村で山本拓道さんから、長崎原爆や星野村の「原爆の火」についてのお話を聞きました。中身の濃いお話でしたが全てを載せると長くなるので、要点をまとめてお伝えしたいと思います。

【被爆後の長崎を記録した米兵(おじいちゃん)】・・・トレバーさんの話
おじいさんは、1941年日本軍の真珠湾攻撃をみて、21歳の時に進んで差戦争に参加しました。兵士としてサイパン・テニアン・沖縄・長崎の戦場を転々としました。直接、戦争体験を聞くことはできなかったけれど、残された写真やおばの話から、太平洋戦争について学ぶようになりました。
沖縄戦のガマで見た数々の無残な死体と匂いは、戦後もおじいさんの記憶から消えませんでした。住民を含めて20万人以上が犠牲になった沖縄戦でしたが、勝ったアメリカ軍でも部隊の65人中で生き残ったのは6人という悲惨な状況でした。戦争には勝者も敗者もありません。戦後もおじいさんはビーチに行くと上陸を思い出し、幽霊を見たように怯えていました。「戦争は死ぬまで終わらない」と、おじいさんの体験からそう感じました。
1945年9月からおじいさんは占領下の長崎に行って写真を残しました。破壊された街だけでなく、生き残った人々も写した写真でした。戦争では、「敵は人間じゃないんだ」と教えられます。でも、おじいさんが長崎で出会った人々は、貧しく何もなかったけれど「人間」でした。長崎での人々との出会いが、差別と偏見のおじいさんの心を癒してくれました。
戦争は国と国とがするもの。アメリカ兵が日本人を差別するのを見て、「アメリカ人を見るように日本人を見てくれたらいいのに・・・」と、おじいさんの手紙に書かれていました。

トレバーさんが日本に来て、長崎でおじいさんが撮影した場所を追いながら、平和について考えていく行程を取材した報道もあります。コロナが感染拡大している今は躊躇されますが、そのうちに彼同様、おじいさんが見たであろう被爆後の長崎の情景と今の様子を見比べながら、戦争と平和について考えてみたいと思っています。

【学校で子どもたちに何を伝えるかが大事】・・・小山浩一さんの話
私は今、「九条の会・日田の会」の活動に力を入れています。毎週、日田駅の前で「スタンディング」をやっています。3月8日から19回立っています。小中高校生がメッセージを書いてくれます。
中には、私と同じぐらいの年配の男の人と女の人が論争を挑んできます。「あんたたちのような人たちが九条を守れと言っているから、日本は外国になめられるんだ!とにかく今は軍備を増強して、よその国になめられない日本にしないといけないんだ!」というようなことを堂々と言うのです。「ということは、そういう教育をしろということですね?」というんだけど、実際そうなりますよね?
ところが、高校生たちはメッセージで、「戦争がなくなって平和な世界がもどってほしい。広島に原爆が落とされたのを知っていたから、戦争はやめてほしいと思いました。ちゃんと言葉にして伝えれば収まると学校の先生が言ってたから、ほんとはそれが大切だと思った。NO WAR!世界から戦争をなくして、みんなが平等に暮らせる世界を作りたい。人を殺す必要がどこにあるのか、その考えがわからない。戦争即刻中止を!話し合いで、即時停戦を!」と書いていました。この子たちが私たちの未来、希望です。
でも、その子たちがさっきの大人のような考えの方に、なびいていくことも考えられる。だから学校で何を伝えるかが、ものすごく大事だと思っています。

広島から、世界中に広がって植えられた「被爆のクスの木」の苗。星野村にもあります。小山さんは星野村に行くと、必ずこのクスの木の葉っぱを持って帰って、クスの木の話をした後子どもたちに葉っぱを渡すそうです。「修学旅行で広島に行ったら、お母さんの木にこの葉っぱを会わせてね」と言ったら、子どもたちはその葉を大切にしているそうです。
子どもたちに〝大事な人を心に住まわせる教育〟をしてほしいとおっしゃていた小山さん。広島の母のクスの木と星野村の子どものクスの木の「命のつながり」を大切にしたお話は、心に強く残りました。

 

星野村へ
その後、車に乗り合わせて福岡県八女市星野村の平和の塔まで、約1時間かけて向かいました。山本達雄さんが被爆後の広島から持ち帰った〝原爆の火〟が灯っています。雨も上がり気温も上がって暑くなりましたが、小山さんの案内で「平和の塔」の説明を聞きました。その他、被爆2世の〝子ども〟クスの木やアオギリの木など、広島と関係を説明していただきました。

星野村では、被爆直後の広島から〝原爆の火〟を持ち帰った山本達雄さんのご子息の山本拓道さんから、当時の達雄さんの気持ちや状況も含めお話を聞かせてもらいました。

【星野村に「原爆の火」を持ち帰った山本達雄さんの思い】・・・山本拓道さんの話
父の山本達雄は、戦争中3回召集されました。3回目は、広島の呉から宇品まで軍の命令を伝える役目を負っていました。
1945年8月6日の朝。当番兵がうっかり達雄を起こすのを忘れてしまい、2番列車で広島に向かっていたので達雄は助かりました。救援に広島に入った兵隊さんたちは、鼻血を出したり下痢をしたり具合が悪くなって、次々と死んできました。何が起きたかわからず、原子爆弾を「毒爆弾」と呼んでいました。でも、何か違うことが起きていると感じたそうです。
半月後に復員命令が出て、達雄は広島に住んでいた父親がわりに可愛がってくれていた叔父の山本弥助さんを探しに行きました。死体の山の中から叔父さんらしい死体を見つけると、愛しくて抱きついたそうです。口を開け奥歯の金歯を確認するのですが、叔父さんでないとわかると途端にその死体はただの腐った死体に変わるのでした。
最後に、もう一度叔父さんが経営していた「金正堂」という書店跡に探しに行きました。原爆の投下地点から500メートルぐらいの3階建ての洋館でしたが、その地下でくすぶっている火を見つけました。息を吹きかけると炎を上げてまた燃えだしましたが、叔父さんが息を吹き返したような気がしたと言います。その火を、出生の時におばあさんが持たせてくれたカイロ灰に入れて、星野村に持ち帰りました。
山本家では、その火を仏壇や火鉢、こたつに使いながら火を灯し続けました。でも達雄には「いつかこの火で、アメリカを焼き殺してやる」「あの憎しみは忘れんぞ」という恨みの火でもありました。
戦後、達雄は「自分は悪い人間だ」と苦しみ続けました。日本が高度経済成長を続ける中で、「自分だけが良くなったらいけないのではないか」と就職を断り、慣れない農業をしながら苦悩を背負い続けていました。
1966年に新聞社を通じて〝火〟のことがみんなに知られるようになり、多くの人が訪れました。達雄は、「恨んでばかりいても良くないのでは」「こんな恨みを代弁していても死んだ人は納得するだろうか」と葛藤したのち、1968年8月6日に〝平和の火〟として市に引き継ぐことにしました。今では、18カ所に分火されています。
晩年、辰雄は「何万人も一度に人を殺した大虐殺の原子爆弾とアメリカを、日本人として許せますか?」と聞かれ、言葉を噛み締めながら次のように語りました。「それが・・、日本人として・・、なかなか・・。その事実は消えんけど、それは水に流す努力をせん限り、今イスラムやら、しょっちゅう殺し合いを繰り返す。あれと同じ結果しかない。一所懸命気持ちを落ち着けて、そういう恨み心は洗い落とさにゃならん。その努力は死ぬまで続く」。
亡くなる間際には、「人間同士が殺し合う愚かなことは、もう止めにゃあかん」と言い残し、2004年5月永眠しました。
一人ひとりやり方は違っても、思いを繋いでいくしかありません。思った人が、今自分にできることをすることでしか、平和を築くことはできないのではないかと思います。

2001年に『原爆の火』の絵本(森本順子・金の星社)が出版されましたが、大分県では翌年2002年の小学生『夏の友』に掲載されました。そして、今日まで子どもたちが戦争と平和について考える、平和学習の大事な教材の一つになりました。また、臼杵市の先生が『原爆の火』を使った平和授業を行い、学校の子どもたちが書いた感想文が拓道さん宛に送られていました。
人々を焼き殺した〝原爆の火〟が〝平和の火〟として、その思いをみんなでつなぎ広げてゆく。そして、一人ひとりの命が大切にされる世の中をつくるため、「自分ができることをやっていこう」と誓いを強くした学習会でした。

中津市の日出生台学習会に参加

中津市の日出生台学習会に参加
― この映画を一人でも多くの人に ―

大分県にある日出生台を知っていますか。由布市湯布院町と玖珠郡玖珠町、九重町にまたがる広大な演習場です。緑の大地が広がる自然いっぱいの素晴らしい高原。しかし、ここは明治時代から軍隊の演習場として使われてきました。そして今は、在沖縄米軍海兵隊が実弾射撃訓練場として使用しています。

その日出生台での在沖縄米軍海兵隊の訓練や訓練後の様子を、見事に1時間の記録映画に収めた「風の記憶 湯布院―日出生台1996〜2022」(高見剛監督)が完成し、それを見る機会に恵まれました。
湯布院で開催される「ゆふいん文化・記録映画祭」で初上映された映画です。私は残念ながら、その上映日に行くことができず観ることができなかったのですが、連れ合いが「ぜひ観てみたい」ということで事務局に問い合わせたところ、「中津市で上映する」ことがわかり主催団体の一つ「中津地区平和運動センター」にお願いして参加させてもらうことができました。

集会の名前は「第35回平和の鐘まつり」。1986年から毎年、反戦・反核・反原発をテーマに開催されている集会です。「中津地区平和運動センター」「ピースサイクルおおいた」「草の根の会・中津」の三者共催だそうです。それぞれがしっかり活動をしていて、コロナでこの2年ほどは開催できなかったようですが、今年3年ぶりに会を開いたそうですが、多くの方が足を運び熱心に映画やトークに耳を傾けられていました。

映画はちょうど1時間の上映でしたが、その内容はとても濃いものでした。日出生台演習場の歴史と沖縄在留米軍海兵隊がなぜ日出生台へ来たか、そして官民が反対運動に立ち上がった経緯など、時系列で映像が追っています。やがて、行政側が押し切られ住民が主体となって反対運動を続ける様子や、段々と日本政府との約束さえ「反故」にし、「傍若無人」に振る舞うようになる米軍兵士たちの姿をカメラはしっかりと記録しています。
なぜ、このような事態になってしまったのか。日本はアメリカの「属国」なのか。日本各地に米軍基地を抱える私たち日本国民は、「本当にこれでいいのか」と考えさせられる映画です。特に、大分県の人たちにはぜひ一度観ていただきたい映画です。

映画上映後は、映画の監督である写真家の高見剛さん(由布院空想の森美術館館長)と訓練を監視する市民グループ「ローカルネット大分・日出生台」の浦田龍次事務局長のお二人が登場し、トークタイムとなりました。お二人の映画に込めた思いや願い、米軍訓練に対する怒りなど、約40分ほどお話を聞くことができました。

【反対運動をする人が少なくなったのは?】
高見さんー最初は官民一体で反対した。その後、県知事(当時)の「如何ともしがたい」の言葉で、だんだん人が離れていってしまった。
浦田さんー反対運動に来ない人はどうして来ないのか、私も知りたい。反対運動は本当にたいへんだが、でも続けなければ、、、。本土5箇所で演習が行われているが、日出生台が一番米兵の外出を食い止めてきた。しかし、今年はついにそれも自由になってしまった。
【映画の題名はなぜ「風の記憶」なのか】
高見さんー日出生台の写真集を出すときに「風の記憶」とつけた。巻頭の言葉を頼んだ筑紫哲也さんが「いいじゃないか」と言ってくれた。米軍訓練の情報は何も入ってこない。何かあっても、風のように少しでも早く日出生台に駆けつけることができるように「風」を使った。
浦田さんー日出生台に来てくれたいろんな人たちの「記憶」という意味で。
【映画を作った理由は】
高見さんー北海道で最後の一人になっても居座って反対運動をした人がいた。その人の周りに人が集まって大きなうねりを作ったという映画を観たから。
米軍は今回は自分たちのしたい訓練をするようになった。もう隠さないという「方向転換」をしたのではないか。
浦田さんー住民主体で反対運動をしているのは日出生台だけ。SNSでネットワークを立ち上げたが、他から連絡はなかった。
訓練の協定は大分県と九州防衛局の間で交わされたもので、米軍は入っていない。それで自分たち(米軍)は関係ないという立場。しかし、今回は日米合意(訓練日数年間35日)さえも破っている。大変なことなのに、他の演習場を抱えている自治体は、それをよくわかっていない。

周りの人たちに、これは大変だよ!ということを知ってほしくて、この映画を作った。

 < 映画のチラシより >

街頭ウクライナ支援募金3回目

― ご協力に感謝感謝 ―

立憲民主党臼杵市支部が街頭募金活動を始めて、今回が3回目。ロシア軍がウクライナに軍事侵略してからちょうど5カ月目の7月24日、1回目と同じくマルミヤストア野田店さんのご協力の下、駐車場をお借りして行いました。
当日午前中はとてもよいお天気で、暑い中でしたが支部の仲間と吉川はじめ衆議院議員、匹田久美子臼杵市議とともに、約1時間支援の訴えかけをしました。
今回は残念ながら、今までと比べると募金額としては少なかったのですが、いろいろな方からお声をかけていただきましたし、片付けの最中にビンに入った硬貨をたくさん持ってきて下さった方もいました。本当にありがとうございました。
しかし、募金をして下さった方から「このお金はどこにいくの?」と聞かれました。「党を通じ国連へと送ります」と答えたものの、ちゃんと届いているのかなぁと〝不安〟も一瞬頭をよぎりました。立憲民主党本部も、募金活動で集まったお金の集約と送り先について、定期的に党員に報告をしていただきたい。信頼関係を築くためにも、とても重要なことです。
ロシア軍の侵略戦争が始まって5カ月が経ちますが、一向に停戦に向けた合意さえ結ばれていません。プーチン大統領は、完全にウクライナ全土を支配下に置くまで、この戦争を終わらせる気はないのでしょうか。
「戦争は、始めることよりも終わらせる方が難しい」と言われます。まさにその通り。しかし、一人の為政者によって引き起こされた戦争で、いかに多くの人々が亡くなったことか。またなぜ、その為政者が起こした戦争を止めることができないのか。全く残念でなりません。

日本もまた、かつて戦争を起こし多くの人々が亡くなりました。当時の軍部がポツダム宣言を受け入れ、1日でも早く降伏していれば、死ななくてよい命が助かっていたと言われています。私たちの声は小さくて、今すぐには戦争を止められないかもしれません。しかし、募金活動を通して多くの市民と気持ちを共有して戦争反対のうねりを作ることで、今の日本政府が進めようとしている「軍拡」政策に待ったをかけることもできると信じています。

学校の先生がいない!!

学校の先生がいない!!
深刻な教職員の人員不足にどう対処する?

新学期当初に学校に必要数の先生がいない。笑い話ではなく、本当の話で事態は深刻です。大分県内の小中学校でも、2022年4月8日現在で小学校29人、中学校17人、義務教育学校3人、県立高校2人、特別支援学校2人の合わせて53人の教職員が足りていません。今後この数は、減るどころか増えていく可能性があります。なぜなら、病休や産休・育休に入る教職員もいるからです。

この傾向は大分県だけではなく、今や全国的な教員不足に陥っています。この原因について大分県教委は、「大量採用した教職員が退職を迎え、その分採用者数が増えたため、臨時任用教職員の数が減って補充が効かなくなった」「教員免許更新制度の時、更新しないまま免許が失効してしまった人がいる」などと説明しています。それも一因でしょうが、それだけでこんなにも人員が不足したりするでしょうか。
県教委は、大分大学教育福祉学部に対し教育学部の入学定員数を増やすよう要請するようですが、少子化の中どこの大学、どこの学部も入学者が欲しい状況です。若者が進んで教職の道を選んでくれなければ、定員数だけ増やしても結局は人が集まらない状況の「定員割れ」になれば、文部科学省も黙ってはいないでしょう。

これから「少子化」と呼ばれる時代、いかに若者・次世代に選んでもらえるか。教職員のみならず、自治体の技術系職員も定員割れを起こすなど、人員不足で災害復旧事業などの大きな支障が出ているといいます。どこも欠員だらけで、どの職種・どの業種も人が集まる工夫や魅力が必要です。では、今の大分県の学校現場の状況は、若い人が進んで選ぼうと感じる魅力あふれる職場でしょうか?

大分県には、他の県にない独自の「人事ルール」が存在します。特に新採用から概ね10年ほどの教職員に、いろいろな地域や学校で様々な体験や研修を積んでもらうというねらいのもと、広域人事異動をするようになっています。では、この人事ルールが若い教職員にどのような負担を強いているのか、教職員組合がとったアンケートの中から見てみたいと思います。

次の表は、教職員組合が組合員(概ね10年3人事地域異動対象者)を対象にとったアンケート調査を集計したものの一部です。採用者数が多い小学校勤務者が最も多く、次いで中学校、養護教員となっています。年齢も新採用者が多いため20代が最も多くなっています。つまり、就職してこれから生活設計や人生設計を始めようとする若い人たちが主だということです。
そのような彼・彼女らが、おおよそ10年間にわたり、3年ごとに大分県下全域をあちこちに異動させられるということがどのようなものなのか、私たちは知らなければなりません。

困りや不安や負担と感じることで最も多かったのは、結婚や出産、育児に関するものでした。当然でしょう。20代が最も対象者として多い年齢ですから。次に、3年ごとの異動のたびに住居を変えざるを得ない教職員も多いようで、引っ越しにかかる経済的負担が大きくのしかかっているようです。採用されて間がない新米教職員ですから、引っ越し費用の負担は大きなものです。しかも教育委員会がその負担を補充してくれるわけではありません。
将来設計に関わる不安と経済的負担、この二つをとってみても、若い教職員にとってこの人事ルールがいかに重荷になっているかが分かります。人の子どもの教育をする仕事をしながら、自らの結婚や子どもの妊娠・出産・育児にためらいを感じてしまう。子どもたちを育てる教職員が、自らの家庭や子どもを持つことができなくて、大分県の少子化問題が解決するでしょうか。それだけを見ても、この人事ルールがいかに罪深く無責任なものであるか、理解できると思います。
若いうちに、いろいろな規模の学校を経験させて研修させることが人材を育成することにつながる、と教育委員会はいいます。これこそ教育が何たるかを知らない者の言うことです。教職員を育てるのは学校の規模ではなく、子どもたちや周りの教職員との関わりです。もちろん、学校の規模や地域の違いは全く関係ないとはいいません。しかし、いろいろな個性を持った子どもたちと自分の周りの教職員との関係の中で、先生としての力が磨かれていくのです。2〜3年ごとにくるくる学校をかわることで、人材育成などできるものではありません。少なくとも、対象者の先生方にメリットを聞いても、「まあ、いろいろな学校に行けたことかなあ」ぐらいしかないようです。逆にデメリットはたくさん出てきて、「早くこんな人事はやめてほしい」と皆さん異口同音に訴えます。

なお、よく「大規模学校ばかり経験していると、小規模学校に行った時に戸惑う。逆もまたある」と言われますが、私の経験から言ってもそんなことはありません。教員はそれほど適応力がないことはありません。確かに子どもたちの数の違いに戸惑うことが、最初はあるかもしれませんがすぐに慣れます。だって、やることに違いはないのですから。学校の様子にも1年2年いれば慣れてしまいます。
それよりも最も重要なのは、管理職の違いでしょうか。特に、若い教職員の自主性を認めながら、大事な所では的確なアドバイスができ、若手のやる気を出させる指導力を持った校長がいるか、それとも常に監視し頼みもしないのに口を出し、しかもやる気を削ぐようなアドバイスしかできない管理主義的な校長がいるかが、1番影響が大きいと言えます。教育委員会は管理職試験を見直し、頭でっかちな管理職を作ることをやめ、真に指導力のある誰からも尊敬されるような管理職を採用することの重要性を認識すべきであると考えます。

大分県教育の未来をし背負って立つ若い先生たちに、このような仕打ちを続けていれば、大分県の学校の教壇に立つ若い教職員はすぐにいなくなるでしょう。現に2022年の小学校教員採用試験の倍率は1.00倍になってしまいました。これは、採用予定者数しか希望者がいないと言うことで、予備の教員(急に教員の数が足らなくなった時の補充要員)がいないことを表します。こんなことが続けば大分県教育は「先細り」し、やがて潰れてしまうでしょう。この深刻な教職員の人員不足に、大分県教育委員会はどう対処するのでしょう。


https://www3.nhk.or.jp/lnews/oita/20220720/5070013236.html (NHK大分NEWS WEB 2022年7月20日付け)より

大分県教育の未来をし背負って立つ若い先生たちに、このような仕打ちを続けていれば、大分県の学校の教壇に立つ若い教職員はすぐにいなくなるでしょう。現に2022年の小学校教員採用試験の倍率は1.00倍になってしまいました。これは、採用予定者数しか希望者がいないと言うことで、予備の教員(急に教員の数が足らなくなった時の補充要員)がいないことを表します。こんなことが続けば大分県教育は「先細り」し、やがて潰れてしまうでしょう。この深刻な教職員の人員不足に、大分県教育委員会はどう対処するのでしょう。

教育は国家100年の計。資源に乏しい日本にとって、子どもたちは宝。その子どもたちを育てる教育こそ大切です。大分県は、かつて多くの学者や政治家を排出した教育県でした。それは、福沢諭吉や広瀬淡窓など優れた教育者がいたからです。子どもたちに豊かな教育を提供するためには、教職員に子ども一人ひとりとゆっくり向き合う時間が保障されなければなりません。遠い学校へ異動し、通勤に片道1時間以上(往復2時間以上)かかれば、ゆっくりどころか疲労が溜まる一方。教職員が授業に集中できるよい環境づくりこそが、教育委員会の大事な仕事。ぜひ、大分県教育委員会には子どもと先生方のために、教育委員会としての本来の役割に立ち返っていただきたいと切に願います。

教職員組合の大会で推薦決定!

教職員組合の大会で推薦決定!

来年の統一地方選に向け決意表明

子どもたちの学習環境改善や教職員の働き方改革の推進

「夜間中学校」の開設に向け取り組みます

大分県教職員組合の第171回定期大会が、7月15日と16日に大分県教育会館で開催されました。県下各地から代議員の先生方が集まり、今の学校現場の様子や子どもたちが抱えている問題、教職員の働き方について熱心な討論が行われました。

日頃から子どもたちと接し、共に勉強し生活している現場の先生方だけに、その議論は、今子どもや保護者や学校が抱えている困りや悩みを切実に表していて、同時にその解決の難しさを感じさせるものでした。日々忙しい中にもかかわらず、「子どもたちのため」と頑張っておられる組合員の先生方の団結と行動力と、そして熱い熱意に共感した大会でした。

 

さてこの大会では、来年度の春に行われる「統一地方選」について組織決定がありました。3年前に組合の推薦を受け県議に初当選しましたが、今回も再び推薦をいただくことができました。1期目は慣れない県議活動の中で、みなさんの期待に応える活動ができたのか不安な自分がいました。しかし今は違います。

決意表明の中で、県議になってこの3年間、現場の教職員と行政の教育委員会の認識の違いをたくさん感じるという話をしました。今、学校現場で何が1番の困りなのか、支援が必要な子どもたちをどうしていけばいいのか、人員不足をどうすればいいのか、「働き方改革」を実効あるものにし、学校をもっと魅力ある職場にするにはどうしたらいいのか、、、というようなことを教育委員会に突きつけ、時間をかけ解決の糸口を見つけていきたいです。

さらに今、県議会の県政連議員団は「夜間中学校」開設に向けた準備を行っています。これもすぐにはできないかもしれませんが、それだけにまた1期4年間取り組むべき大きな目標です。

この4年間に自分なりに積み上げてきたものを活かし、子ども、先生方、働く者の仲間、社会的立場の弱い人たちの側に立って政策活動を進める決意です。子どもたちみんなが笑顔になれる大分県政をめざしがんばろうと心も新たにした、気の引き締まる大会でした。ご支援、よろしくお願い致します。

 

 

教育現場を席巻する諸課題・諸問題

教育現場を席巻する諸課題・諸問題

子どもをめぐる教育的諸問題
<経済格差と学力格差><子どもへの虐待><ヤングケアラー><不登校や引きこもり><支援を要する子どもたちの増加><陰湿化するいじめ問題><夜間学校の設置>等など

教職員をめぐる諸問題
<人員不足><広域人事異動><低い賃金><進まない「働き方改革」><新たな研修制度><定年延長問題><上からの押し付け授業改革>等など

今、子どもたちや教育に携わる教職員を取り巻くいろいろな課題や問題点について、挙げてみました。全てを取り上げることができていませんが、ちょっと見ただけでも本当に多いですよね。なぜ、このように子どもたちや学校教育をめぐり、いろいろ問題が吹き出しているのでしょう。

原因はさまざまでしょう。生活様式が多様化してきたことや貧富の差が顕著になってきたこと。社会の歪みが、立場の弱い子どもに向けられていること。原因ははっきりとはわかりませんが、特別な支援を必要とする子どもたちが、考えられないほど増えていること。

先生たちも、自らの生活設計が立てにくくなるほど、追い込まれています。結婚・出産・子育てといった人生設計を考えなければならない時期に、広域人事でどこの学校へ異動させられるかわからない。そんな情報が若い学生たちに「大分県の若い教員は、どの学校に配置されるかわからない」と噂になり、大分県の教員採用試験の受験者数倍率は、とうとう1.00倍になってしまいました。

他県では、もうほとんどの教育委員会で廃止された、この人事異動ルールが大分県ではまだ活用されています。全国的にも教員の人員不足が言われています。教員として優秀な人材を得るためにも、教職員の働き方の改善は最も急務な出来事です。

エネルギー資源に乏しい日本という国では、人材が最も大事な資源といえます。その大事な資源を生かすも殺すも政策次第です。その意味で、政治家の役割はとてつもなく重要です。子どもたちやその保護者、そして教職員の皆さんが心やすらかに安心して、勉強や教育に打ち込むことができるよう、1議員としてできる限りのことに精一杯頑張りますので、今後ともよろしくお願い致いたします。