海に沈んだ炭鉱「長生炭鉱」

海に沈んだ炭鉱「長生炭鉱」
~朝鮮人強制連行の歴史を刻む~

ピーヤ(排気筒)

【目的】
ある朝の報道番組で、山口県宇部市にあった「長生炭鉱」の存在を知った。映像には、海からニョキと建っている2本の煙突のようなもの(ピーヤ)が映っていた。そしてその海底には、183人の遺体が埋まっていた。先の戦争で被害にあいながら、歴史に埋もれたままになっている事実がそこにあった。被害を認めようとしない行政側の態度に疑問を持つ。戦争による「被害」と「加害」の事実と歴史を知っておくことは、今後の議会活動にも必要である。「歴史に刻む会」共同代表の井上さんに、詳しいお話を聞きその歴史と問題について調査した

 

 

 

【内容】
海に沈んだ炭鉱「長生炭鉱」の歴史と課題について、「長生炭鉱の水非常(炭鉱用語で水没事故のこと)を歴史に刻む会」共同代表の井上洋子さんにお話を伺った。
●「長生炭鉱」は、山口県宇部市床波海岸にあった海底炭鉱。アジア太平洋戦争中、朝鮮半島から日本に自由渡航したり、強制連行された朝鮮人らがたくさん働いていた。
●海底から十分な暑さのない所を掘っていたため何度も水漏れを繰り返しており、地元の人はここの就労を避けていた。それで、沖合の危険な個所は朝鮮半島出身者が作業をさせられていた。
●1942年2月3日。無理な採掘により水没事故が発生。海水が坑道に入り、中で働いていた労働者183人の命が奪われた。そのうち、136人が朝鮮半島出身者だった。
●翌日には、炭鉱の入り口の坑口は閉じられ、犠牲者の遺骨は82年経った今も海底に残されたままである。当時の報道もわずかであり、その後はまったく知らされないままだった。
●法律で禁止された浅い層を発掘したため海水が流入した「人災事故」だった。その日が「大出し」の日であって、要請された量を供出せねばならず、水漏れがあって危険な状況であるにもかかわらず、天井を支えている炭の柱も払ってしまってのが、原因と言われている。
●戦後の1991年3月に「長生炭鉱の水非常を歴史に刻む会」が結成され、3つの目標をめざしたという。
(ア)資料・証言の収集
(イ)ピーヤの保存・・・宇部市、山口県に要請中
(ウ)追悼碑の建立・・・市民の募金で2013年2月建立。
●犠牲者宛に1991年秋「死者への手紙」(118通送付のうち17通返信)を送ったことで、初めて長生炭鉱で亡くなったことを多くの遺族が知ることとなった。1992年3月に「韓国遺族会」が結成された。
●追悼碑が完成するまで、「刻む会」と韓国遺族会は、何度も話し合いを重ねた。遺族会からは「日本人の碑も建てるのか。痛めつけられたかもしれない日本人に対して頭を下げることはできない」という声もあったという。井上さんたちは「同じ戦争の犠牲者として、朝鮮人も日本人もともに弔いたい」という思いがあり、繰り返し話し合いを続け、2013年に双方が納得する碑の建立が叶ったという。
●現在は、遺骨の発掘・変換を実現するため日韓政府と交渉するなどの取り組みを続けている。
●国も行政も「大切な問題だ」と言いながら、誰も責任を取ろうとしない状況。「刻む会」は、日韓市民に呼びかけて、坑口を開けて遺骨を発掘し、ご遺族のもとに帰す運動を続けているとのことだった。

【調査を終えて】
長生炭鉱は朝鮮人強制連行・強制労働の象徴的存在江ある。「加害国」日本の責任で解決すべき問題だが、今現在も国や行政側は実現に向けた行動を起こしていない。事故が起きた床波海岸に立つと、2本のピーヤ(排気・排水筒)がまるで犠牲者の墓標のように立っている。犠牲になった人々は、狭く遠い坑道を逃げまどい、どんなに無念だったろう。
もっと早くに遺骨収集をし遺族のもとへ変換できなかったのだろうかと思うと、胸が苦しくなる。
戦争中の日本各地の「被害」については語られることも多いが、日本のアジアへの戦争「加害」について語られることは多くない。様々な国の人々とあたたかい交流をしつながりを深めるためには、過去の「被害」だけではなく「加害」の事実もしっかりと見つめていかねばならない。大分県内でも、鉱山や工場などで同じような事実がある。他県での歴史や事実を学び、議員として行政に何を求めていくことが大切か引き続き調査していきたい。

 

クリックすると拡大画像を開きます