~沖縄戦から「戦争をする国」に走る今の日本を考える~
【目的】
今回の調査活動は、南西諸島を中心として、自衛隊の配備強化が進む沖縄県の現状について、沖縄本島ならびに石垣島に住んでいる人々に聞き取りを行い、その課題や問題点を整理し、今後の議会活動に役立てようと考えました。
また、沖縄戦に関わる史跡や資料を見学・調査することで過去と現在を結びつけながら、平和と戦争について考えてみました。
5月12日(日)
沖縄空港から車で読谷村へ向かう途中、道の駅「かでな」に立ち寄る。ここは、嘉手納基地が一望に見渡せるデッキがある。日曜日だったので、米軍戦闘機等の発着陸が見られなかったのは残念だった。見渡す限り滑走路という風景に、米軍基地が占める広大な面積を間近に感じることができた。
その後、読谷村役場の「九条の碑」を見学。沖縄戦で米軍の上陸地点となった読谷村では、多くの住民が地上戦で犠牲となった。沖縄では、戦後かつての悲惨な戦争を繰り返すまいと、多くの「九条の碑」が建立されている。読谷村役場に建つこの碑は、1995年10月に行政が設立したことで大きな話題になった。沖縄の人たちの平和への祈りが、この「九条の碑」に込められていることを感じ取ることができた。
続いて、同じ読谷村にある「金城アトリエ」の金城実さんに会いにゆく。金城実さんは、英語の教員であり有名な彫刻家である。読谷村にある悲劇のガマ「チビチリガマ」の「世代を結ぶ縁和の像」の作者でもある。戦後の沖縄の歴史と現状について、様々なところで発信されている。
アポなしで尋ねたが、ちょうどマスコミの取材を受けていたにも関わらず快く迎えてくれた。現在進められている南西諸島の自衛隊基地に強化などについて、厳しい口調で批判されていた。本土に住む私たちとは違う、まさに地元沖縄の人たちの怒りと苦悩を強く感じられた。直接お会いすることで、一層その思いを強く受け止めることができた。
5月13日(月)
2日目は、「対馬丸記念館」の見学。疎開しようとして米軍の潜水艦の魚雷で沈没した対馬丸。対馬丸に乗船していた疎開学童、引率教員、一般疎開者、兵員ら1,788人のうち、疎開学童784人を含む1,484人が死亡した(2018年8月22日現在氏名判明分)。記念館では生存者の声を記録した動画も放映され、当時の戦争の悲惨さを伝えていた。子どもたちが犠牲になる戦争は絶対に起こしてはならないと改めて誓う。
続いて、豊見城市にある旧海軍司令部壕(海軍壕公園)に向かう。1944(昭和19)年 日本海軍設営隊(山根部隊) によって掘られた司令部壕で、当時は450mあったと言われ、カマボコ型に掘り抜いた横穴をコンクリートと杭木で固め、米軍の艦砲射撃に耐え、持久戦を続けるための地下陣地で、当時約4000人の兵が収容されていた。戦後しばらく放置されていましたが、数回に渡る遺骨収集の後、1970(昭和45)年 3月に、観光開発事業団によって司令官室を中心に300mが復元され、現在公開されている。
話を聞きながら当時の写真なども見ながら、過酷な当時の状況やそこまでして戦争を続けた当時の日本の軍部の無謀な作戦が、多くの犠牲者を生んでしまったことが悔やまれてならなかった。
5月14日(火)
3日目は、石垣島へ。新栄公園の「九条の碑」と八重山平和祈念館を聞き取り調査。八重山平和祈念館では、当時の住民たちが日本軍の命令により、マラリヤ有病地へ強制的に追いやられ、多くがマラリヤに感染。命の落とした事実を若い学芸員の方が説明してくれた。こちらの質問にも的確に答えてくれて、平和を伝える若い世代がここでは育っていることが嬉しくもありうらやましくもあった。
その後、金城龍太郎さんのご自宅を訪問。金城龍太郎さんは、石垣島で農場を営んでいる。訪問早々にマンゴー農園を見せていただいた。広大な農園に手塩にかけたマンゴーたちがたわわに実っていた。
金城さんは、陸上自衛隊の石垣島への配備を巡り、市民が計画への賛否を示す機会を設けようと、2018年から住民投票の実施に向けて奔走し続けている。市民の意思を示す機会が必要だとして「住民投票を求める会」を発足し署名活動など市議会へ働きかけたが、市議会は条例案を否決。南西地域の防衛体制の強化が進められる中、陸上自衛隊の石垣駐屯地が2023年3月16日に開設された。
金城さんは、有権者の4分の1を超えた場合、市長へ住民投票の実施を請求できるとした条例を根拠に市を相手取る裁判を起こした。裁判は最高裁まで続き、2021年の8月訴えは退けられ敗訴が確定した。金城さんは現在は別の裁判を起こして、住民投票の実施を求めて再び市と法廷で争っている。金城さんは、「行政の計画を支持する人だけが住民ではない。住民の中でも反対する人もいる。可能性がある限りは続けていきたい」と語っていた。「自分が住んでいるすぐそばに自衛隊の吉ができて、初めて自分事として感じるようになった。もし、別の場所だったら何も思わなかっただろう」とおっしゃっていた言葉が、自分の気持ちと重なる。大分市にもミサイル弾薬庫が建設されるようになって、初めて自分のこととして感じている自分がいる。安全保障の名の下に、当事者であるはずの住民が議論から置き去りにされ、意思を示す機会も与えられていない現状を強く感じている。自分にも何かできることはないか、考えさせられた調査だった。
【調査を終えて】
大分市の敷戸に弾薬庫が設置され、日出生台においても日米の共同訓練が恒常化されようとしています。そのほか、民間空港を使った自衛隊戦闘機の離発着訓練や湯布院駐屯地へのミサイル部隊の配置など、戦前を感じさせるような動きがこの大分県内でも激しくなっているように思えます。沖縄県を含む南西諸島地域での自衛隊の配備とそこで暮らす地域住民の思いはどのようなものか。それらの一端を調査する中で、今後の私たち大分県民のとるべき行動が見えてくるのではないかとの思いから、今回単独での聞き取り調査を行ってみました。
大きな成果と言えるようなものは現時点ではありませんが、「防衛」という名のもとにそこに住む住民の願いや気持ちが無視されたり、踏みにじられたりしている現状が見えてきました。過去の沖縄戦の事実と重ね合わせながら、沖縄を南西諸島を、そして大分を含む九州を、再び戦場とするようなことには決してしてはならないと思いを強くしました。平和問題については、今後も県議会の場で続けて取り上げていきたいテーマであります。